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ふと気が付くと最近本を読んでいない。

肉体的な老いは年がら年中感じているし、それは別に気にもしないし、むしろちゃんと年齢を刻んでいることを誇りに思う私にとって、毎日しっかり、その証拠が身体に現れるのは愛おしくすらあるのでどうでもいいことなのだが。

 

こと、精神的な若さというか、新鮮さには殊の外、気を付ける様にしている。正確には気を使っているつもりだった。

 

でも、実際はそうじゃなかったという話。

 

突然ですが、男子体操で世界最強選手っていったら今のところまだ『内村 航平』選手でしょ?

 

その内村選手が言っていた言葉を思い出してしまった。現在29歳前後だったと思いますが、彼曰く。『28歳になって、試合までの身体の調整を意識するようになりました。以前は試合までには自然と身体が合ってくるという感覚でしたが、今は狙ってそれをしています。(大意)』

 

つまり、それって、ひとつ『老』なんではなかろうか?

 

自然とオートメーション化されている部分が意識しないとできなくなる。これって、ただ単純に老いたという話ではなくて、経験を重ねて他に出来ることや、やらなければいけない事が増えて、人間が一度にこなせる事には限界があるから、結果的に漏れて意識して漏れないようにするというパターンもある。

 

いずれにしても、これらは老いのひとつの形式だと私は思うに至った。

 

で、その一つが『思考の固定化』だと私は思っている。よくいうでしょう『頑固爺』とか。経験や知識が豊富になり、知っていることが増えると人は新しいものを自分の物差しでしか測らなくなる傾向がある。

 

まず、自分に受け止めてみようという柔軟さが失われると思われる。

 

これを私は非常に嫌う。見ても、触れても居ないのに判断できないと思うからだ。好みの問題は別にしてだ。そうなった生き物は確実に絶滅の道を歩む。生物の進化の真骨頂は多様性。多様性を否定したらそこで終わりだ。そういう意味では、生き物ほどいい加減で懐の深い存在はきっとこの世にないだろう。

 

で、その顕著な例が、私にとって『本を読む』という行為だ。これは最近の書籍に関わらない。古今東西、いろんな書籍に触れることで時代も前後し、果ては未来まで垣間見える本は多様性の宝庫だ。その点では歴史的蓄積が薄いWeb、インターネットの世界では結局永遠に追いつけないのではないかと思う。だって、あらゆる本をデータベース化することは不可能だから。

 

例えば古文書のあたりはデータ化できないでしょう?そもそも読めないし。でも読めた人たちには口伝されたりして、ごく少数ではあるが確実に残っている。まあ、消えているものもあるでしょうが。

 

その本に触れている回数が、近年になく今少なくなっている事に気が付いた。20代の頃は月に8~10冊は新しい本を読んでいた。30代になっても5~8冊。結婚していた時期でも図書館へ通って月に5冊は確保していた。そして42歳になってなんと月1冊。少な過ぎね?

 

どうしたこの1年。いや、確かに広州と無錫の行ったり来たりで、毎月2千キロ近く移動してるけど、時間もないけど、そもそも落ち着いて本読むような環境は無いけれど。でも読めない訳じゃあない。これは自分の心が硬化してきたのではないか?と考えている。毎日読んでいる新聞連載の新・人間革命は別にして、毎日読んでるものが、無いのは考え物だ。

 

あー情けない。

 

人は、その精神力やら、脳の学習機能は生涯伸ばすことが可能だという。私は勉強は大嫌いだが、学ぶ事は大好きだ。学ぶためなら、勉強の労苦は耐えられる。

 

その向学の志を忘れたら、私は私ではなくなってしまうのかもしれない。それは冗談では無いので、きっちり、仕切り直す。精進を忘れたら、それこそそこで終わりだ。