『いちばんやさしい教える技術』だったかな?
教えるという事に特化して事細かに書かれた良書。
そもそも教えるって何?教えることのできる人になれる資格は?
考えた事も無い言葉のオンパレード。目から鱗というが、鱗が落ちすぎてめのまえが見えない。
この本の著者は教える側が教えを乞う側を怒る事を完膚なきまでに戒めている。
どの位かというと。教えを乞う側を怒るものは、教える資格が無い者であると断言しているのだ。
正直不可能だと思った。どんなに出来の良い生徒でも間違う事もある。それに学び習得してきたからこそ、我見も育つし、こうしたいという自分流を見出すこともあろう。その時に『これが基本だ!』と叱り飛ばす事無しに教えるなんて果たして出来るのだろうか?
詳しくは本書に譲るが、少なくても本を読み進める限りは矛盾は感じられない。言っている事は筋が通っていて納得できるものだった。これを否定するには反証して、証明する必要があると思うが、それはきっとかなりの困難を伴うだろう。もしかしたら、徒労に終わる可能性の方が高いかもしれない。
で、今回はそれが結論では無くて。
対象は別に誰でも良いのだが、自分がすでに習得済みの技術や知識を他人やまたは近親者に教える時。どうしても出来て当たり前の物を出来ていないとイライラして厳しく教える事がある。例えば『何回教えてもわかんねー奴だな!』とか『メモ位取れ!とったらそのメモをちゃんと覚えて使えるようにしとけ!』とか(笑)
これら一切はこの本では否定されている。そんなことを言わなければいけない場面を作った教える側の力量不足だと(笑)
今は私もそう思う(大笑)
ちょっと前にコーチングなんて言葉がはやったが、あれと傾向は似てる。教えるとコーチングの決定的な差は知ってる、出来る事を伝授するのが教える。自分じゃできない事すら教えるのがコーチングだと思う。じゃあコーチングの方が偉いのか?というとそう簡単な事ではない。
知らないって事は相手がこちらの意図を説明者の認識通りに説明出来たと確認出来て初めて知らないを克服させたことになる。
だとするならば、この世の中にどれだけ不幸な教えたつもりの人がいるだろうか。
これはこの本を読んだ上で、中国で生活して初めて認識した事だが、知らないって事を知らないのは本当に不幸を生む。ソクラテスが無知の知と行った事が、今更ながら含蓄深く思い起こされる。
特に日本は『盗んで覚えろ!』なんてことがいまだにある。これ自体は習慣として仕方ない反面、全部が全部それに当てはまる事柄ではあるまい。
ましてや、ずぶの素人に知識や技術を教えるならば、日本人のやり方を通して、『見て覚えろ!』とはなんと傲慢な事だろうか。教える側のレベルアップこそ、色々な民族、人種を超えて幅広く教授できる最適解なのではなかろうか。
思えば反省しきりで、部下に対しても、中国人スタッフに対しても、はたまた自らの親に対しても暴言ともとれる指導の数々。本当に、本当に反省しかない。
これは自分の身に着けてきた経験と自信の裏返しでもある。苦労して積み重ね、獲得してきた経験や知識や技術を一足飛びに享受できる対象への嫉妬ともとれる。私は苦労したんだ!との叫び。でも、一歩冷静になってみれば、教えを乞う相手にとってそんな教える側の苦労話なんてどうでもよい。
むしろ、ウザい。
何も益は無い話なのだ。そこまで切り捨てて良いかは論を待ちたいところだが(笑)
実ほど頭を垂れる稲穂かな。
正に恥じ入るばかり。
孔子は四十にして迷わずと説いたが、今更ですが、迷いまくりだろう(笑)
30代の頃より、落ち着いたと思ったが、まだまだ修行不足。頭を垂れる稲穂の様な謙虚な姿勢と確固たる指導性を確立するにはまだまだ勉強不足過ぎて恥ずかしい。
自分の座右の銘は『さぁ、今日も仕事をしよう!』だが、仕事力がついてきたと錯覚した自分が本当に恥ずかしい。
いつも自分に言い聞かせている。
『足りたと思ったら、その時こそ滅びの道、敗北の道の第一歩。』と。人生男性でも80年時代に突入したが、それでもはや半分を生きたというのにこの体たらく。目指すべき高みはいつも手に入りそうに見えてとてつもなく遠い幻の様だ。
褌絞めなおして、今一度初心に帰り、必死の努力と必死の苦労を積み重ねればなるまい。はーっ本当に情けない。思い知るのが遅いのは仕方ない。知ったのだから、ここからきっと巻き返す!!