トマの日記

忘備録、雑感、所感などを日記形式で書き綴る。昔はノートに日記を付けていたけれど、ノートを持ち歩かなければいけなかったので、ブログ形式でWeb更新出来る様に変えたのがきっかけ。

多様性を認めるとはこういう事だろ?

不登校経験者として、フリースクールスタッフとして、どうしても思うのが「自己肯定感よりも『自分のへっぽこさ』を引き受けるほうが大事ではないか?」ということです。仮説ですが「へっぽこ感の受容が最優先説」を唱えたいと思います。

私自身のことを言えば「自己肯定感」ってやつにふりまわされてきました。不登校当時、焦って、もがいて「自己肯定感を持っている自分」を追い求めていた時期があります。でも、自己肯定感は身につけようと必死になっても身につくものではありません。「自己肯定感を持って」と言われても私は「詰み」でした。

 

(中略)

 

ある子の場合は「自分のレベルよりも『ちょっと上』をいつも目指してしまって苦しい」と話してくれました。ちょっとできるようになっても、次々と自分のなかでハードルが見えてしまい永遠に満足できない。まさに「自己肯定感のアキレスと亀」(無限ループ)。追いかけても、追いかけても自己肯定感は逃げていくわけです。

 一方「へっぽこ感」です。私自身は「人見知り」であり「人に合わせる」ことが苦手です。こうした「へっぽこ」で「マイナス」な部分は、内在している感覚、自分の一部として実感している部分です。この部分を受容するほうが、自己肯定感という「実感のない感覚」を培うよりもいいのではと思うのです。

 プラス方向へ向かっている力もマイナス方向へ向かっている力も、向かう方向こそちがえど「自分の力」という点ではまちがいありません。「力の向き」をムリに変えようとするのではなく「力」そのものの見方を変えていく。そのほうが自然だと思うのです。

 

 

不登校新聞より。

 

これその通りだと思います。

 

仏法で言う所の『桜梅桃李』という事でしょう。

 

桜が梅になろうったってそうはいかない。桃には桃の良さがあり、杏には杏の良さが有ります。という意味で。

 

不登校の解決に必要なのは不登校にならない様にするよりも、『不登校が有り』の状態を許容できる場所を作る方が早い。身も蓋も無いが・・・。

 

要は学校という器では無くても、学力が身に付き、社会性が養えればいい訳で。もっとっちゃえば社会性が仮にズタボロでも、それでも良いとその人達が生きられる世界や、領域を作って有れば問題ない訳で。

 

LGBT(エル・ジー・ビィー・ティー)または GLBT(ジー・エル・ビィー・ティー)なんかを含む、話もこの手の考え方でだいぶ方向性は見えてくるのではないでしょうか?