高齢だから、という理由だけで優先席は要らない。50歳を過ぎたら、本当に座らなければならないほど苦しくなったときに備え、原則、電車やバスの席に座るべきではない。座らない癖をつけよ。それが自分のため、それが体力づくりのためだ。
そして、自分が座っている前に若者が、なにやら疲れた様子で不機嫌そうに立ったら、すかさず立ち上がって席を譲ろうではないか。立ち上がって、次のように言うのだ。
「どうぞ、お座りください。私たちがこうやって暮らしていけるのも、年金のおかげ。その年金や医療費は、あなた方のような若い人たちが一生懸命働いてくださるから。えぇえぇ、感謝してますよ。どうぞ座ってください。そして、お疲れを取って十分に働いてください」
そう言って慇懃に話しながら座席を譲るのだ。そういう老人、年寄りが増えれば、若者は、かえって老人に敬意をもつようになるだろう。
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週刊東洋経済記事より。
当方40代ですが、徹夜続きでクソボロボロでも、必要とする人が居れば席を譲る。
ガラ空きでも、立ってる事もある。
逆に席を譲れと宣う似非高齢者が居たら死んでも席は譲らない。
敬意とはそう言うもんだ。
仮に自分が爺になって70代になっても、そうは成りたくない。ジジイの矜持として、死んでも立ってたい。
以前にも日記に書いたことがあるが、50代で早期退職して、猟師になって、出来れば野垂れ死んで墓場へ行きたい。体が動く限りは現役で兎に角何かしら仕事がしたい。働きたい。
それが叶わぬなら、自死もやむなしと思うが、それは負けを生き物として認める事になるからしない。
生き抜いて、野垂れ死んだら、墓はあるので、弁護士に遺言でも公文書で託して、墓へ埋葬してもらう。勿論その費用は前もって準備して置いての話。弁護士に頼んでおけば出来ないことは無かろう。
そうやって、生き物としての命を全うしたい。
だから、やれお年寄りが席を譲られずに転倒したら一生モンの怪我をするとかいうのはバカバカしく聞こえる。だったら、今死ねや。一生ものの怪我を負ったって、どうせ老い先短いだろうに。だったら、家から出るなや。
一歩外へ出たら、食い殺されても不思議はないのが、外界。たまたま人類だから、他の猛獣、猛禽類に出会わない環境で暮らしてるだけ。
その代わり、事故や病気で死ぬんだから。
自分の命の始末は自分でつけろよ。いい歳こいて情けない。