トマの日記

忘備録、雑感、所感などを日記形式で書き綴る。昔はノートに日記を付けていたけれど、ノートを持ち歩かなければいけなかったので、ブログ形式でWeb更新出来る様に変えたのがきっかけ。

情報通信技術が究極に発達すると民意は消える?

前述の東浩紀さんは、かなり早い段階から、ミシェル・フーコーによる「管理社会」批判の成果などを踏まえる形で、ハーバーマス啓蒙主義的な思想家が擁護しようとした「市民的公共性」という概念が、ICT(情報通信技術)の普及に支えられた高度消費社会の中で急速に現実的基盤を失いつつあることを見据え、独自の現代社会論を展開してきました。

彼が15年ほど前に雑誌に連載した『情報自由論』では、人々が大資本や国家などの、ひたすら快適な生活空間を提供してくれる「環境管理型権力」によって飼いならされ、すなわち「動物化」された結果、自立した意思決定を行い、公共性を担うはずの「市民」はもはやどこにも実在しないのではないか、という問題提起を行っています。

 

 

週刊東洋経済記事より。

 

かなり面白い主張。その通りの部分もあるだろう。

ただ、私は彼の言う通りにはならないと思う。

哲学でも、ある種の宗教でもいいのだが、そういったやってる本人が認めている普遍性を自分の人格の他に持っている人にはこの手の問いは至極簡単な話だから。

 

そもそも、宗教や哲学ってのは自分の善悪の判断基準という側面が強い。だって、人間は迷う生き物だから、困ったときにどうするか判断できないと詰むでしょう?そいう普通に答えが出せない悩みや困難にぶつかった時に哲学やら宗教ってのが役に立つように出来てる。

 とするとだ。高度な情報管理社会になり、そういった環境を無償提供してくれる政府があったとして、その無償提供されている心地いい状態を非と、否と、する人たちが絶対るはず。これは自分の人格以外に判断基準を持っている人たちはきっとその性質上気が付く類の問題だから。

 逆にそう言う価値判断外部装置を持っていない人は簡単に転がると思う(笑)

 

実際に彼が述べる状態に近くはなっているのだろうから、間もなく検証できるタイミングが来るんじゃないか?(笑)楽しみではないですか。