トマの日記

忘備録、雑感、所感などを日記形式で書き綴る。昔はノートに日記を付けていたけれど、ノートを持ち歩かなければいけなかったので、ブログ形式でWeb更新出来る様に変えたのがきっかけ。

宗教性を失いつつある日本じゃ当たり前の光景。

 

シロクマの屑籠さんのブログ記事に「自覚しない限り、まずい言動を繰り返す」という袋小路を避けて叱ってくれる人間関係を予め構築しておかないと、後になって本当に誰も叱ってくれなくなった時に「まずい言動を繰り返す中年が爆誕することになる。」と締めくくっている。しかも、不味い言動を戒めてくれる人が出てこない以上、そのまずい人の言動はエスカレートする可能性を指摘している。

 

叱ってくれない事を望んだ人が一定数この日本界隈にいた結果、世の中こうなった的なブログ。

 

言っている事に一定の理解は示せるが、本当にそうなのだろうか?と違和感が個人的に残らなくもない。例えば倫理学何かを大学で先行して結構真面目に勉強した人とか、何かしらの哲学や宗教学なんかを勉強した人。またはそれら哲学、宗教なんかを実際に信仰の対象として実践している人でも良い。そういう人にはもしかしたら、あてはまらないのではないか?と疑問に思えて、なんか引っかかる。

 

それが、明確に「何」なのかを言葉でしっかり説明できない所が、私の浅薄な所なのですが。違和感が残るという事はどこか納得していない訳で、それが気になっていると言う事なのだろう。

 

何かしら宗教を持っているか、師匠的な人が居て、哲学的な思索を繰り返した人だとこういうことどう考えるのだろうか?

 

日本にはそもそも、天皇制に代表されるようなちょっと深い宗教じゃない宗教性が存在していて、それがある種の道徳観念になって長年息づいていたと思う。新渡戸稲造はそれを「武士道」なんてかっこいい概念にまとめたけど、別に武士に限ったことではない。日本人道でも良かったくらい日本人的概念だと思う。ただ武士はそれを道というくらいブラッシュアップしていたので、参考にまとめやすかったという事だと私は思う。

 

で、結論なんですが。

 

叱ってくれるような知り合いを持てなかったとして、周りが迷惑するようなまずい言動を繰り返す人が増えたとして、それが行けない訳でも無いし、そういう人が多い世界で、上手く行く様に知恵を絞るしかないと思う。最近言われているダイバーシティ的考え方も、結局色々な性質の人達と上手くやって行けるようにしましょうって考えだとおもうし、もしかしたら、そういうまずい言動を繰り返す人も、何かの分野では組織に良い影響を及ぼす力を持っているかも知れない。

 

幸い私の場合、放置される事も無く、いさめてくれる友人に恵まれていると思う。

 

本当に自分が幸せだと思う所は、私の同級生には私自身に耳が痛い事を、例え友人関係が壊れることが有ったとしても、私に直に進言してくる人が多いと言う所だ。

 

そんな彼らを私は非常に尊敬している。私以上に透徹した人生観をもっている稀有な存在だと思っていつも接している。でも、阿る事もなく、すり寄る事もなく、個々が独立していて尚、年二回集まるくらいに繋がっている(笑)

 

もう四半世紀の付き合いになるが、彼らのお陰で常に複数のライバルを抱えている感覚を持ち続けているため、精神的にとてもリフレッシュさせていただいている(笑)

 

本当の幸せは本人にしかわからないだろうが、私は胸を張って、幸せだと言い切れる。少なくても、今は(笑)

 

もしかしたら、まずい言動を繰り返す中年には既になってしまっているのかもしれないが、だったとしても、それを踏まえて、生きていける様な生命力は持っていたい。