日本には、かつて親が定年を迎えたら子が養うという社会構造があった。日本の公的年金は賦課方式であり、現役世代の保険料が年金給付の財源となっている。子の世代が親の世代を養う構造になっているのだ。
だが、それは本質的に間違っている。中国から輸入された儒教に「孝」、すなわち「子は親を敬い、親は子を心配する」という考え方があり、その影響で日本でも親孝行が奨励されるようになったにすぎない。本来、生き物は親のためには何もしない。親は子どもの面倒をみて、子どもは孫の面倒をみる。そうやって世代交代が続いていく。親は、子の犠牲になるのが自然界の基本原理であって、子が親を養う生き物は人間だけである。
したがって、子どもは親の面倒をみなくていいし、親は子どもに面倒をみられてはいけない。介護などはしてもいけないし、されてもいけない。子どもは親の犠牲になるべきではない。もちろん私も絶対に介護されない人生を送るために、必死で抵抗している。
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週刊東洋経済記事より。
バツイチの私が何を言っても、馬の耳に念仏だが、そもそも結婚していた当時もこの記事のような考え方だったので、特段スタンスは変わって居ない。
そもそも、介護するにしても、介護される側が協力的なのか非協力的なのかでその効率は大きく変わる。介護状態もしくは将来介護必要者になった段階で、さも王様にでもなったかのように振る舞うジジババが後を絶たない。
今までは、いびつな賦課方式年金制度が生きていたからそれも可能だった。でも、今は違う。年金では生活できないのは周知の事実だから、国が確定拠出年金なんて作って優遇税制してるんでしょうが。
故にそういう変化を認識していない。もしくは認識しても目をそらして見ていないお年寄りは、もう生き物のレベルで言ったら、すぐに捕食されるか、野垂れ死ぬしか選択肢の無い弱い個体ということになる。生物界で弱い個体とは、即ち次世代の糧にこそなれ、守られる対象ではない。効率が悪いから。
人類は違うけど。
よって、生き物としての根本的なスタンスに立ち返れば、介護を必要として自分で餌を取って来れなくなったら、それは生き物的な死なのである。
きつい言い方をすれば生きてちゃ迷惑な個体になったということ。
でも、人類には人権なんて、特別な特権があるから、すぐに死にもしないし、殺されたりもしない。この有難い権利を特に日本人は勘違いしている。
嫌なら、生き残る力をつけよって話。
私もここ15年くらい、両親に住宅ローンの繰り上げ返済の利点や、今後の税金が値上がりする方向性の対策、老後資産の準備などアドバイスというか、それを含めた勉強の勧めを啓蒙してきた。ことごとく無視、または鼻で笑われた。
息子が何をぬかす、頭が高いとの事らしい。
なので、諦めた。
無駄な時間はかけるだけ損をする。仏の顔も三度まで。金銭的な問題はこちらに火の粉がかかる事以外一切助けない事に決めた。資金を投入する以上、言いたい事、改善して欲しい事を主張するのは当たり前だが、これも両親は理解できない。全財産なげうって、親のために尽くせというのが両親の主張。
昔はそれでも年金があったから、まあ、百歩譲って良かったとしましょう。今の状況では、そしたら私の老後はどうなりますか?って話です。
馬鹿げてるので話にならない。
私にはすでに墓があるので、死んで荼毘にふせばそこへ叩き込んでもらえば良い。そのための金と遺言書だけあれば後は行政が片付けてくれる。これで無縁仏にはならない。
簡単な準備だ。
なので、要介護になったら、切腹する覚悟で、健康状態を管理し、老後への準備を進めている。そして60歳で定年した後の生活と仕事もどうするか今からシュミュレーションしている。
だって、私いま独身だから。
親の始末と自分の始末を想定して準備しておかないとやってくれる人は他にいないのだから。弟は別に家族を設けているし、子供にお金もかかるし、家も持っているので、もう親の面倒を見るほど余裕などない。
出来るのは十分な収入があり(結婚可能な年収と言われる600万円以上という意味特段金が有る訳では無い)、自身の蓄えを最小限保ちつつ、親の援護が可能な私がやるしかないのだ。そのための方針を今までとは変えて、親の無理解はそのままに、過剰な援助は一切しないと決めたという話。