トマの日記

忘備録、雑感、所感などを日記形式で書き綴る。昔はノートに日記を付けていたけれど、ノートを持ち歩かなければいけなかったので、ブログ形式でWeb更新出来る様に変えたのがきっかけ。

報恩は人間にだけ存在する最も崇高な概念。

8月15日、行方不明だった2歳の男の子がボランティアの男性によって発見された。この男性、尾畠春夫さん(78歳)に賞賛の声が集まっている。尾畠さんが言った「かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め」という言葉に感銘を受けた人も多かったのではないだろうか。

この言葉、「懸情流水 受恩刻石(刻石流水)」は、仏教経典が出典と言われる。タイ仏教においても、釈迦は、自分に対して利得を与える他者の恩を心に留めて忘れず、その後に何かの折りに、恩返しの行為を実行する人が気高い人であると言う。

 

 

週刊東洋経済記事より。

 

恩を感じ恩を報じるのは人間だけだ。

 

鶴の恩返し、ごんぎつねとかあるけど、基本は寓話に過ぎず、本当の話ではないだろう。本当に恩に報いて返すことが出来るのは人間だけだ。

 

だから、恩義を受けたら、それこそ本気で返す。まさにこの記事のように石に刻んで忘れまじを私も実践しているたまに行き過ぎで、取り巻きに怒られる事もあるが、それは仕方ないと諦めている。

 

特に師匠に受けた恩は私にとって特別だ。報恩の人生こそが、私の中でもっとも崇高な生き方の一つだと思っている。

 

逆に私が一番信用できないのは恩を返さない人。それは私に対してではない。

 

このお爺さんも言っている通り、かけた情けは水に流せだ。次元は違うが、友に貸した借金は上げるつもりで貸せというあれと一緒。

 

自分がかけた情けはその対象、友人や知り合いに対する今までの感謝であり、ある意味自分にとっての報恩なので、その対象が裏切ろうが何しようが、それを全部含めて自分の業だ。だから、かけた情けは忘れる。水に流す。

 

でも受けた恩は自分持ち。どうその恩義を返すか。どう報いるかは自分の感謝の気持ちを表す機会だ。

 

故に自分以外に恩を受け、それを返せないもしくは返さない奴をみると私はその人物を絶対信用しない。仕事が出来ようが、容姿が優れていようが、また権力を持っていようが、類まれな才能を持っていようが、関係ない。そいつは信用してはいけない相手と認識する。恩の返し方は直接恩を受けた人物に返すだけとは限らない。報恩を意識して、先輩からの恩を後輩に返す類もありだと思っている。

 

どうしてもかかわる必要のある仕事相手であれば、仕事上の責任を果たすだけで、決して信じて用いない。そんな人は必ず、一番最悪のタイミングで人を裏切る。それは自分も含めて。だから、信じない。

 

概念としては身に刻んで人生を歩んできたが、まさかそれを身をもって思い知るとは思わなかった。しかも、生涯の伴侶と選んだ相手に。このお爺さんのコメントを読んでそんな事を思い出した。

 

まさに不徳の致すところ。

 

我が身の修行不足というか、まだまだ青いと反省しきりである。