トマの日記

忘備録、雑感、所感などを日記形式で書き綴る。昔はノートに日記を付けていたけれど、ノートを持ち歩かなければいけなかったので、ブログ形式でWeb更新出来る様に変えたのがきっかけ。

親父殿が亡くなった。

昨年9月からストレス障害を発症し、会社を休職して約五か月。

 

私が休み始めた翌月の22年10月8日から、父親が入院していた。

 

心臓と肺に水が溜る症状が続き、呼吸を圧迫するため、緊急入院して治療を受けていた。

 

23年、年明け1月に一切の症状が落ち着いたため、自宅へ復帰するためリハビリ用の病院に2月7日に転院した矢先、病状が急変して2月12日に亡くなった。

 

79歳だった。

 

まだ亡くなって1週間。10日も経っていないが。

葬式も終えて荼毘にふして、今に至る。49日が4月1日という冗談のような日だ。

 

医者は勿論、看護師も驚くような急変だったので、翌日看護師から直接電話があった。

曰く、「看護師でも驚くくらい急な話で、お力に成れず、すいませんでした。」との事だった。主治医は「転院した時と検査データは全く変わっておらず、容体が死に向かう様な知見は見られませんでした。」「衰弱としか思えません。」

 

(私の勝手な翻訳):検査データに不備や、急変は観測されず、医療ミスなどの病院側の手落ちなどでは無く、老衰による寿命と思われます。

 

と言いたいのだろう。私も品質管理を司る身なのでよくわかる。合理的に科学的に落ち度はないのだと患者家族に反感を持たれないための持って行き方だから。

 

それを以て、医師や看護師を責めたい気持ちは微塵もない。

 

いや、急に亡くなった事は生死の理を学ぶ身である自分自身をしても、予想外のダメージだ。こんなにも、親父殿を失う事が大きな喪失感と絶望感をもたらすとは考えも及ばなかった。ただ、亡くなった事そのこと自体は腑に落ちている。

 

事ある毎に我が人生の岐路において、特段学がある訳でも、雄弁に語る訳でもない、ほぼ無口な職人の親父殿が、何よりも雄弁に語った一言、二言の、ぼそっとしたアドバイスが如何に大事な金言だったか。

 

昨日の様に思い出される。

 

新卒で入った会社を半年でやめ、次に入った会社で、さいたま市に500万円だしてもらって、別会社を起業した。そのスタートメンバーとして軌道に乗せて、月産2人で1500万円稼ぐ会社にして、過労で倒れて退社し、26歳で月収手取り40万円稼いでいた生活から、いきなり、派遣社員で手取り12万円の生活へ。

 

そこから、正社員になって、今の会社に縁して、ト○タ自動○参入プロジェクトを勝ち取って、自動車業界の品質基準を満たす業績を上げ、その業績を引っ提げて、中国へ駐在。足掛け6年ちょっとを中国で暮らし、やっとこ帰国したら、管理職として、月90時間を数える激務を3年半。

 

その後、リストラによる部下7割減を食らっても、業績を下げずむしろ1.5倍にした。

 

まあ、そんな無理が祟って、さすがに昨年下期に倒れた訳ですが。

 

そんな息子に何を文句言う訳でも無く、見守ってくれた親父殿が亡くなった。

 

ストレス障害で休職していたおかげで、父親の面倒は私がメインで見られた。ただ、父親と同い年の母が、落胆し過ぎて、正直見ていられない。50年連れ添った同い年の親父殿を失った悲しみは息子である私の比ではないのだろう。想像すらできない。

 

どう語っても、理解できないだろうし、同じ気持ちが共有できる人がいるとも思えないので、詳しくは語らないが、父親はこれ以上無いタイミングで、亡くなったと確信している。

 

人に迷惑かけず、最大に子煩悩な父親らしい最後だった。

 

自分が華を咲かせるのではなく、他人が華を咲かせるためにずっと、一つ一つ種を植える。植え続けるような人生を歩み切った親父殿を私は心底尊敬しているし、私には同じ年になったとき、そこまで透徹した同じ生き様を示せるか甚だ疑問だ。

 

まだまだ修行不足。

まだまだ足らぬものだと反省するばかり。

 

79歳の高齢だから、仕方無いのは間違いないが。

今少し、声を聴いていたかった。

いずれ私も霊山へ赴くと思うわけだが、少なくも、親父殿に恥じない生き様を刻むことが出来たと、誇れる自分に成長して、あの世で面会したいと決意する次第である。